◉震災発レポート
被災車両の姿
——そうした41万台の数々
〜東日本大震災の光景〜
宮城県亘理郡亘理町 ◉ 2011年4月12〜15日
東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)
text & photos by kin
2011.8.18 up
41万台以上の自動車が被災
この東日本大震災における自動車の被災車両数は、「およそ41万台」と推計されている(2011/04/19 日刊自動車新聞調べ)。ただしこの数字は自家用車の推計値のため、事業用車輌や工場出荷前在庫や他県から流入した車両なども含めると、さらにこれ以上の膨大な数字となると推測されるという。
被災地の現場には、津波によって流されたままの車両があちこちに転がっている。泥を被ったり、水圧で圧縮され潰れたりしている。そんな日常では違和感のある光景が、この被災地の日常では当たり前の風景となっており、歩道脇に1台、2台放置されていても、誰も気にも留めることはない。
そうして放置されている車も、これは駐車してあった車が流されたのか、避難の途中で被災したのかはわからない。捜索隊は全ての車両の中も捜索し、捜索が完了した際にはスプレーでサインをしているのだが、そんな車を見る度に持ち主は無事に逃げられたのだろうかと思いを馳せてしまう。
この仙台平野の一帯は、地震の発生から津波到来まで1時間近くの時間があった。しかしそもそも仙台平野には歴史的に津波到来の記録もなく、住民には津波避難の意識は全く頭になかったという。そのため地震の揺れの後は余震への不安の中、被害や安否の確認と片付けに追われていた。海と海岸線は長く続く防風林の松林や堤防で遮られており、陸からは海面の様子を伺うこともできない。そんな仙台平野を襲った津波は、内陸部の4、5kmまで広く浸水した。この浸水範囲というのは、例え地震直後に躊躇無く避難を開始したとしても、周辺に高台のないこの地域では徒歩では逃げ切れない距離だ。
そんな車がないと生活ができないこの地域では、多くの人が車で避難した。うまく避難できた人もいたが、道が渋滞して車が動かず、そのまま津波に襲われた人も少なくなかったという。一緒に被災地で復興支援作業を行った地元の男性も、車で逃げる途中で津波に流され、途中で車から脱出することができたため難を逃れたと話していた。
車体にはチラシが
驚いたことに、どの被災車輌のフロントガラスにも、必ずと言っても良いほどチラシが貼り付けられていた。それは県による持ち主への撤去要請の書類であったり、あるいは廃車解体業者の買い取り案内のチラシであった。
ここに車はあっても、その多くは自分の車がどこに流されたのかすらも判らず、探すことができていない。車がないと探しにも行けないのだ。その状態であるにも関わらず一応持ち主に撤去を促すという、行政の一応の形式的な書類にも驚かされたが、それよりも廃車解体業者の動きには驚かされた。
解体業者は、まだ捜索活動が続く中で住民すら役場の通行許可証が必要な地域に、そんな住民や救助活動者よりも先んじて被災地域に入り、廃車の一つ一つに丁寧にもチラシを貼り付けていたのだ。それはモラルが著しく問われるべきものでもあるが、ある意味で商魂たくましいサバイバルな行動力とも言え呆れるばかり。それも特定の1社だけでなく、少なくとも異なる複数社は確認ができた。
しかしチラシを律儀に貼り付けているだけでもまともなほうらしく、中には勝手に堂々と運び出していく「窃盗」を働く業者もいたという。こうした各地から復興作業者が多く入り込む現場では、持ち主の当事者以外には、それが業者なのか窃盗なのかの判別がつかないためだという。
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。