◉震災発レポート
多文化学校特別講座
『被災地・石巻からの報告』
〜青池組ドキュメンタリー映画・予告篇
東京都新宿区・大久保地域センター ◉ 2011年10月31日
東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)
text & photos by kin
2012.4.1 up
大久保で予告編の上映会開催
阪神・淡路大震災直後から5年もの長期間、長田区野田北部・鷹取に入りドキュメンタリー映画を撮影した青池憲司監督。この10年以上にわたり東京・大久保との関わりが続き、地域で市民講座「多文化学校」の校長も務めている。東日本大震災後に入った石巻での撮影地から久しぶりに帰京し、多文化学校の第6期として完成したばかりの予告編の上映・報告会が行われた。
会場には20人ほどが来場した。半数は講座の常連である地域の参加者だったが、あとの半数は被災地支援に参加したり興味を持つ方々だった。校長でありこの日の報告者である青池監督より、東日本大震災が発生してからの動きや関わり、被災地に入り撮影することになったきっかけ、撮影の舞台となっている石巻についての説明がなされた。
上映されたのは、予告編『わたしはここにいます〜石巻・門脇小学校・夏』という予告篇作品。作品の舞台となったのは、被害の大きかった宮城県石巻市の門脇小学校とその地域である。予告とはいえ30分もある短編の趣きがある映画だったが、密度が濃く物足りないその短さが、翌年夏に向けて撮影中だという本篇への期待を感じさせた。
映画の舞台は、被災した石巻市の門脇小学校。学校のある門脇・南浜地区は、津波と火災で被災した。子どもたちは地震の後、高台へと避難をする。先生、保護者、地域の住民。門脇中学校で間借り授業を行う門小の授業。地域住民と行政との間で行われる復興まちづくりの話し合い。そして夏が始まる。
上映後、車座になり監督を囲んでのディスカッションが行われた。どのような意見や感想が出てくるか興味深かったが、実にこの場に参加された方々の特異性に沿うような意見交換が交わされた。
大久保のまちづくりや地域の研究に関わる方、建築設計に携わり地域防災に関心のある方、定住外国人支援に携わっている方、福島へ被災地支援に行かれた方、社会派ドキュメンタリー映画に関わる方など、それぞれの分野で災害弱者への支援や防災に関わっている。阪神・淡路大震災や防災まちづくりなどの知識があり、その上で映画を観ての感想や質問が出ていた。
舞台・門脇小学校の今後は?
石巻の現状についての質問から話が始まった。避難所は10月11日で解消されたが、公民館などに設置された待機所に百人程度が移動している。門脇小学校の学区である門脇や南浜地域は、津波と火災により壊滅的に被災してほとんどの建物が解体され、撤去が進みつつあり、広い更地が広がっている。その中にあった門小は、門脇中学を間借りして学校再開しているが、児童の半分近くは学区外に引っ越したために、そこから通っている。
住民も仮設住宅などで地域から離れて生活をしているとはいえ、被災した門脇や南浜地域には現在コミュニティも解体状態で、まちづくりの話も遅々として進まない状態にある。それでも保護者が子どもを転校させることなく、かつての通学区に通い続けていることについて、それを青池監督は「まちに戻りたいという『意思』はあるわけです」という。子どもと地域、その両方の意味で門小校区を離れないのだと。
「ただ門小は、僕は無くなるのではないか? とも思っている」とも話す。「学校の統廃合を将来的にやるのではないか。来年の1年生の入学児童は決まっているから早急には無くならないとは思うが、校区がなく誰も住んでいない現状の中で、学校が有り得るのかというような論法は、出てくるのではないか」と。
送迎風景から透く、途方もない現実
石巻は車社会。スクールバスはなく、親が送り迎えしている状況。車を流された方は新しく買ったり、遠くの親戚や知人に手配してもらったりしている。そのためもあり、他県ナンバーの車をよく見るという。男親の送り迎えが目に付く様子からは、家族愛も感じるが、一方では仕事が変わったり失ったりしていることがあるのかとの推測もできるという。
青池さんは、そんな学校への送迎風景一つを切り取り透かしてみても、「現地が途方もない現実に直面している。その途方もない現実をどうやって伝えればいいかという困難に直面しているわけですけれども。我々撮影隊は」と被災地を見る。
復興まちづくり
門脇・南浜地区は、歴史的に無堤防地帯だったという。砂浜と1メートルほどの堤はあった。しかし旧北上川の河口部で、かつて堤防を作ろうという議論があったが景観を大事にしたいという意見が多く、以来そのままになっていたそうだ。震災後、住民の意識は変わり、3.5メートルほどの堤防と高台への避難路整備を行うまちづくりを望む方も多いようだが、行政は現在のところ、非居住区にして防災公園にする構想を考えているところだという。
劇中、行政による復興まちづくりの意見交換会の場面があった。予告編なこともあり、話し合いの場面はほんの少ししか登場していなかった。これについて、話し合いの場面の状況についてや、まちづくり全体の進捗状況についての質問が出た。青池さんは、「知らない人に話しきれるほど、現実の話し合いも撮影状況も、進んでいない」。だがこれを「遅々として進んでいる」と説明した。
プランニングは進めているが、行政も結局、どうやってカネ(復興資金)を捻出するかというところにぶつかって動けないでいるというのが、現実なのではないかという。これに対して住民もいろいろな意見を出す。そこには行政に対しての感情的な意見もあり、これも大事なことだ。ただ言いっぱなしにするのではなく、住民は自分自身の意見をどうやって集約していけるかというのも大事な問題。市内ではそのような動きが進んでいる地域もある。
ただ門脇・南浜地区は、住民がバラバラに住んでいるので、話し合いの場を持てていない状態。連絡網の整備から構築する段階にある。連絡の取れた人たちで、ひと月に一回も集まれず、2、3ヶ月に一回くらいで集まりを開いたり、携帯で話したりして、自分たちのコミュニティの意思をなんとかまとめて準備をしているという。他の地域は、進んでいる所もあるが、ほとんどは進んでいない状況ではないかと見ている。「遅々として進んでいる」というのは、決して停滞はしていないが進み方は遅々としている。
映画に映っていたまちづくりの意見交換会の場面は7月の状態で、その時からは少しは進んでおり、11月にも交流会が予定されているそうだ。そうして意見をまとめようという将来戻ることを目指す意見もあれば、住民の中には悲惨な被災状態を「忌まわしい」という言葉で表現し、戻るのはいやだという人もいるという。
この門脇・南浜地区だけでも300人くらいの方が亡くなった。いろいろな地域住民の方にインタビューをしていると、同じような話が出てくるという。津波から水が引いた3日目くらいに高台から地区に降りて歩いてみる。すると地面は(彼らの言葉を借りれば)「死体がごろごろだった」という。そういう想像もつかないような悲惨な被災状況を見て、何がなんでも戻りたくないという人もいれば、行政の構想のような防災公園をつくるのではなく、自分たちがまた住める街を自分たちで作ると話す人もいる。まだまだ全体の具体的なイメージをつくるのは、難しい状況のようだ。
まちづくりの専門家は
建築家であり、これまで地域防災にも携わってきた多文化学校運営委員の方からも質問があった。「学会からも専門家からも復興まちづくりに関しての意見やアドバイスは送り続けているが、今までこの新宿区など東京の各地で"事前復興訓練"などに携わってきた青池さんの中にもこうしたノウハウはあると思うが、もどかしく思っていませんか? そうしたことや阪神・淡路大震災の事例などを教える機会は、まだない状態ですか?」
「僕はもどかしくは思っていない」と青池さん。「被災地・石巻の沿岸部でも動いている人がいっぱいいる。それが遅々としてしか進まないからといって、外部の者がもどかしがるということは傲慢かもしれない」のだと。阪神・淡路大震災からの教訓という意味では、多くの専門家がおり実際に入っているので、青池さんがアドバイスをするようなことはないのだという。だた「多文化学校みたいなことは、撮影期間中に何回かは開きたいなと思っている」のだそうだ。
阪神・淡路大震災後のまちづくりを5年にわたって記録した『記憶のための連作「野田北部・鷹取の人びと」』全14部(1995年〜99年)のDVDを、被災地でもかなりの人が観てくれていた。中には全巻観てくれたという人もいたという。「僕は阪神・淡路大震災の記録映画がここで通用するかというのを、東日本大震災は状況や被害の規模や内容も違うから、最初は懸念をしていた。上映会を開き、阪神・淡路大震災から3ヶ月後の時の作品を観てもらった時、住民さんの一人に、『まだここまでとても自分たちの復興はいってはいないけれども、次のステージにはこういう風になるんだろうなということ、石巻の近い将来の自分たちを描いた映像のように思えた』と言われた時に、かなりきちんと観てもらえたと感じて、ありがたかった」という。
まちづくりの話し合いの場には、阪神・淡路大震災を知る専門家たちも相当数入っている。ただ行政のまちづくりのプランを支援しているのは、ビジネスとして入っている大手の都市計画コンサルティングである。行政の担当者は、話し合いの場でコンサルの話の通りに住民に説明をしている。ただ住民から意見が出てくると、その場では返答できない姿が目に付くという。つまりコンサルからは、そうした返答に関してのレクチャーを受けていなかったからだという。ただ後日、別の地区での話し合いで同様の意見が出た際には、返答がされていたという。そんなやりとりが交わされている状態のようだ。
子どもたちのことば
青池さんは、門小の様子を「疲弊した教師と明るい顔の子どもたち」と評していた。これについて質問があり、「ただ暗い顔をした子どもたちも必ずいると思う。要するに家や家族が被災してしまった。そうした顔は、映さないのか映せないのか。監督の眼から観た暗い顔の子どもたちの様子はどうなのか?」と。
「子どもはなかなかしたたかで、キャメラの前用の顔と学校の仲間との顔と、家に帰った顔といっぱい多面体の顔を持っている(苦笑)」と答えた。「暗い顔を映したいし映せるとは思うが、それは今後の我々撮影隊の課題でもある」と。
一方で5年生くらいになると凄いことを言うらしい。「自分たちの心の中まで切り取るような映画にして下さい」なんて言うコメントを貰ったことがあった(苦笑)。えらい挑戦状を突きつけられたような感じでね。僕は再生のドキュメンタリーにしていきたいと思う。そういう意味では、単に哀しい悲惨な映画はいらないと子どもたちが言っているようで、課題でもある」と青池さん。
そして撮影は、さらに続いていく。
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。
◉データ
多文化学校特別講座「被災地・石巻からの報告」
〜短篇ドキュメンタリー映画上映とトーク〜
開催日:2011年10月31日
場所:東京都新宿区
大久保地域センター3F A会議室
主催:多文化学校運営委員会
内容:短篇映画『震災復『わたしはここにいます〜石巻・門脇小学校・夏』
上映とトーク 青池憲司
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