青池憲司コラム
KOBEから・まちの変幻
クランクイン
神戸市長田区 ◉ 1995年1月〜7月
text by 青池憲司
1995.7 up
1995年7月17日の神戸市長田区野田北部地区は激雨の朝をむかえた。大地震から半年がすぎた。半年というのはひとつの節目にはちがいないが、16日と17日でなにかが変わったわけではないし、17日になったらとつぜん新しい物事が始まることでもない。昨日から今日へそして明日へと「被災地の非常時」という日常がつづいていくだけである。「非常時」を早く終熄させたい思いは誰しも同じではあるが、それはまだまだつづく。
野田北部地区はJR鷹取駅の南側に広がる海運町、本庄町、長楽町、浪松町の四か町十二丁で構成されている自治連合会である。約18ヘクタールの地域に約1200世帯・3500人の人が住んでいる。小さな商店街と市場、平均45平方メートルくらいの戸建て、長屋造りの住宅、事業所などが密集している。戦災にあわなかったこともあって戦前からの家屋も多く、ふたり並んで歩いたら道幅いっぱいといった路地がたくさんある。古くからある大国公園は地域の中心的な場所として親しまれていた。ある都市計画の専門家にいわせると、「地味で野暮ったくはあるが、人間くささが色濃く残る」下町であった。そんなたたづまいをもつ野田北部の9割ちかくが全壊し半壊し、その約3割が直後に出た火災で焼失した。41人のかたが亡くなっている。
わたしが震災後の野田北部にはじめて入ったのは1月27日の夜遅くだった。大阪天保山港から船に乗り神戸メリケン波止場に着き、そこから目的地まで国道2号線を7km歩いた。灯りの消えたまちに消防車のサイレンだけがきこえていた。わたしの目的は野田北部・鷹取に住む友人知人たちのお見舞いだった。それ以前にかれらの安否は確認してあったが、どんな顔をして「非常時」を生きているのか、かれらの顔を無性に見たかった。その夜は友人が司祭をつとめる教会で、たきびを囲み酒をくみかわしながら文字通り旧交を暖めた。
翌朝、わたしが見た最初の光景は赤茶けた原色のまちであり、すでにその中で立ち働いている人びとの姿であった。男も女も子どももおとなもいっしょになって瓦礫をかたづけ、家の中から生活道具を引き出すその仕事ぶりに、わたしは、共同体の原初の形をみたように思った。さらにボランティアも加わっての活動は、「相互扶助」とか「一体感」「自発性」ということばをおもいおこさせた。共同体(地域共同社会)をつくりあげていく理念の実態がそこにはあった。
野田北部には鷹取商店街があって、その活性化のために「まちづくり協議会」が1993年につくられた。大国公園の整備やコミュニティ道路の建設など、活動は活発だった。また、下町特有の向う三軒両隣りの近所づきあいがあって、うっとうしくもこまやかな人間関係があった。あの家の家族の様子まで知っていたことが、被災時の救助活動に役立ったという。壊れた家から自力ではいだし家族を助け出したあと、人びとは誰いうこともなく近隣の家々にかけつけたが、あの家のひとり暮らしのおじいちゃん、この家の病気の子どものことがとっさに頭にうかんで身体がうごいたという。おたがいの家族のことを知っていなければこんなうごきはできなかっただろう。地震の当日の17日午後4時には「まちづくり協議会」に復興対策本部が設置され、地区の被災状況の把握、住民どうしの助けあいの態勢がつくられていった。
復興にむけての「まちづくり協議会」なるものは、震災後の被災地のあらゆる地域でつくられた。ある所は住民の発意で、ある所は行政の指導で。野田北部のまちづくり協議会がとりわけ抜きん出ているわけではないと思うが、震災前からの活動が地震直後の結束力と行動力をもたらしたであろうことは想像に難くない。当初は協議会の役員数人で動いていた復興対策本部に、ふたり三人と住民が参加しはじめ、一週間後には20数人が日夜集会所に詰めてそれぞれの事にあたるようになった。
被災した個人には個人のドラマが、家族にはドラマがあるように、地域社会が全体としてどのように新しいまちをつくりあげていくかの物語もまたある。野田北部の人びとは、まちの復旧ではなく、まちの新生にむかって歩きはじめた。それといっしょに、わたしたちのキャメラも回りはじめた。
[了]
◉初出誌
『月刊自治研』(自治研中央推進委員会事務局発行,1995年)、「記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』全14部」DVD BOX特典本『阪神大震災 KOBEから・まちの変幻』(野田北部を記録する会発行,2005年)
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。