◉震災発レポート
奥尻島輪行譚 ❷
インド洋大津波後、世界から注目
そして被災前のジオラマ製作
北海道奥尻町・奥尻島 ◉ 2005年8月15日
◎ 北海道南西沖地震
奥尻津波館
text by kin
2011.1 up
防風雪シェルター
翌朝は快晴で、暑い日差しが照りつけた。家々の軒先には漁船の大漁旗が連なって干してあり、とても色鮮やかだった。ほとんどの家が漁業に従事しているとわかる。はじめは祭りか何かがあるのかとも思ったが、これは単に朝漁に出た船に乗せていたものを干している日常なのかもしれなかった。高台が小高い丘のように続いているが、そこを上がれるように何本もの避難階段がつづら折りに走っており、避難誘導標識灯が設置されている。その避難路の一本は全体がドーム型の屋根に包まれた階段だった。これは防風雪シェルターというもので、冬期を想定して設置されたものだという。夏のこの時期では想像もできないが、確かにこの島は1年の半分くらいは厳しい環境にさらされる。しかしこのタイプのシェルターはコストもかさむためかこの場所くらいで、日常で利用しないことを考えると設置のバランスも難しいのかもしれない。
高台から集落を望むと、地区のほとんどが盛土でかさ上げされていることがよくわかる。港から一段高くなっているのだ。図によると、その港と盛土の宅地部分の境界が防潮堤を兼ねているらしい。それでも南西沖地震クラスの津波がまた来るとここもまた危ないので、高台の避難階段を目指すということらしい。
高台を上がった先には奥尻空港があり、函館空港とを結ぶ定期便が就航している。被災した青苗集落の被災者は、当時この高台に建てられた仮設で生活を送っていたという。現在でもそこで使われていた仮設が、別用途としていたる所に残されていた。
奥尻津波館へ
奥尻島最西の青苗岬に建つ、町営の「奥尻津波館」に入った。この岬地域は被災以前には集落が広がっていたが、地震で壊滅した為に集団移転事業地となり、現在では公園として整備されている。その公園の核をなす奥尻津波館は、路線バスも定期観光バスも止まる観光スポットとなっている。
館内では映像や写真資料により北海道南西沖地震を知る事ができたり、鎮魂と記憶のためのモニュメントが設置されている。また島の歴史、その誕生から太古の昔にこの島で生活していた時の発掘資料なども展示されていた。まが玉など郷土資料館的な要素もあった。冬期など過酷な環境にある孤島であるが、昔から豊かな海で人が住み着いていたことがわかる。
ミニシアターで観る説明の映像は分かりやすい。津波は震央の1点から発生しても海底の地形によっても曲がったり早さや高さが変化したりもするし、対岸から反射したりもするということがわかる。だから津波が島の片面だけではなく島を取り囲むように襲来し被害が及んだのだ。
館内を巡る通路の壁には、被災当時の写真が展示されていた。ついさっき復興した現在の街並を歩いていたばかりの身としては、こうした写真の風景を見せられてもあまりの変わりようは信じられないほどだ。しかし被災に関しての直接的な展示は、この写真の中にしかなかった。例えば広島や長崎の原爆資料館に展示されているような「被爆して変形したモノ」のような"災害遺産"的な現物展示がなかったのことは、太古の土器やまが玉までが有ったことと比べても、かえって違和感を覚えるものだった。
ホール正面には198個の穴から発光するモニュメントが鎮座している。この光は奥尻島での人的被害者数を象徴するという。その光は犠牲者の魂のようでもあり、尊い命の数を直接眼で実感させられる。ホールフロアの設置されていたのは、48個のケースで再現されていた島の歴史を物語るミニチュアだ。それこそ島の誕生から復興を遂げた現在までが再現されていた。
"インド洋/スマトラ沖"以後、世界から視察増加
メインの展示物を見終わった後、傍らにあった展示にも興味を持った。一つはおよそ半年前の2004年末に起こったインド洋スマトラ沖地震の大津波以後の現在の様子を伝える新聞記事で、世界各国からこの島への視察が相次いでいるという。この記事の末尾にもあったが、この小さな島の復興費用の総額は、実に「927億あまり」にも上るという。このほとんど要塞的な費用の掛け方は、すべて他の国や地域にも当てはまる方法論ではない。とてもではないが、巨大な防潮堤で海岸線全てを取り囲むことはできないのだ。
しかし専門家も基本的な考え方、例えば高台への避難表示灯や望海橋のような人工地盤を設置などは参考になかもしれないと言っていた。そして最も重要なのは、住民の防災意識、つまり揺れを感じたら津波警報などを待つまでもなく高台へと避難するというような意識を住民に持たせることだろう。奥尻の島民は日本海中部地震の被災を記憶していた為に難を逃れた人も多かったのだ。そうしたソフトとハードを組み合わせた防災対策・教育を構築していくべきなのだという。
街並をジオラマ模型で復元
奥尻津波館の展示において、更にもう一つ興味深かったのが地震前の青苗の街並を復元したジオラマ模型であった。これは以前に奥尻を訪れた、阪神・淡路大震災の復興まちづくりに関わっているボランティア仲間が話していたものだった。当時はまだ制作の途中だったと思うが、それが完成したようであった。
その仲間曰く、被災した街並の復元ジオラマを作る事は想像以上に困難なことだと言う。神戸の復興まちづくりの過程でもこれをやりたかったが、結局は出来なかったらしい。奥尻も阪神も町内の全てが全焼したことで、写真類は全て失われた。もし写真が失われることが無かったとしても、そもそも日常の生活圏の街並の写真というもの自体、普通はほとんど撮られることもないのだ。
この模型は、発案から完成まで実に8年を要したという。地区の1/3もの人が亡くなった中、残った住民に一つ一つの建物の形や色などの聞き取り調査を行った。自分の家やその隣くらいまでしか詳細には記憶していないようだ。区画や地形などは協力した大学教授が航空写真から割り出し、後に町教育委員会も加わって調査を更に深め、屋根の形や色までこだわって人々の記憶を引き出したという。
展示物としてはおまけのような模型だったかもしれないが、こうした再現のための調査・制作の過程も含めて心の復興に必要な作業であったような印象も感じた展示であった。
[続く]
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。
- 奥尻町
- 檜山広域行政組合
- 北海道せたな町
- 島牧村
- 奥尻島観光協会 ブログ
- 奥尻島津波館-観光名所 - 奥尻町
- 奥尻島津波館-公共施設 - 奥尻町
- ネイチャーイン島牧 島牧ユースホステル
- 北海道南西沖地震教訓情報資料集 - 内閣府
- 『蘇る夢の島! 北海道南西沖地震災害と復興の概要』1996年発行 - 奥尻町