◉震災発コラム
もう1年、まだ1年 被災地・長田の現在 ❸
現場の1週間
神戸市長田区 ◉ 1996年1月17日/21日
御菅地区合同犠牲者一周忌追悼式/つづら折りの宴
text by kin
1996.2.9 up
1月17日、御菅地区合同犠牲者一周忌追悼式
1996年1月17日、菅原市場の駐車場に大きなテントと巨大な祭壇が設けられた。ここで全焼地区である御蔵通とこの菅原通の両地区の犠牲者を悼む「御菅地区合同犠牲者一周忌追悼式」が執り行われる。式の実行委員会は、被災した地区のまちづくり協議会や地域住民自身によって作られ、そこに多くのボランティアや地域企業が協力しての開催となる。
この実行委員会の仕事は、まず初めに地域で誰が亡くなったか、遺族は今どこにいるのか、出欠の有無はなどの基本的な確認作業から出発したという。この地域は全焼した上、区画整理の網の掛かった土地にはプレハブしか建てられず再建を断念したり、遠くの仮設住宅に当選して地域を離れざる得なかった人たちがほとんどなのだ。そんなこの追悼式に私は実行委員会記録担当として参加し、式の様子をカメラで記録することとなった。
この式には実行委員会に参加する曹洞宗国際ボランティア会(SVA)とのつながりもあり、全国各地からおよそ100名もの僧侶を迎えることなった。皆手弁当で駆けつけて下さる。そしてSVAやすたあと長田に来ていたボランティアたちも大勢参加し、その運営を側面から支援する。そんな式の前には演歌歌手の五木ひろし氏も来場し、仏前に献花する姿があった。
式は地区の震災犠牲者の三分の二近い150人以上ものご遺族が参列し、全体では2千人以上もの参列者を迎えた盛大かつ厳粛な式となった。厳かに分厚い読経の祈りが会場に響き渡る。
式後も久々に再会した住民同士で至るところで話の輪が咲いており、笑顔で談笑する姿があちこちで見られた。山口県下関市の唐戸市場からは、5千食ものフグ鍋の炊き出し「ふく鍋隊」も来ている。鍋もフグを形取った特製の巨大鍋だ。その炊き出しを何名かの力士の方がお手伝いして下さり、参列者に振る舞っている。同時開催された格安の法要市も大盛況で、みなさん大きな紙袋一杯にお土産を抱えての帰路となった。とても忙しくも厳粛であり、中身の濃い1日であった。
1月21日、つづら折りの宴
21日は長田神社で「つづら折りの宴」が行われた。被災地の慰問ライブを続けていたソウル・フラワー・ユニオンのメンバーが企画したこのイベントは、趣旨に賛同した実力のあるアーティストたちが手弁当で駆けつけてくれた。それを全国から集まったボランティアたちが支えている手作りイベントである。
美術を志す若い子がバックドロップなどの装飾を施し、看護婦であるボランティアも福祉ブースで待機していた。当日朝に駆けつけた者たちも10数名は集まり、注意事項に素直に耳を傾けている。
神社の境内には、朝から夕方まで入れ替わり立ち替わり観客が来場していた。プログラムの中盤では、ボランティア活動を続ける作家の田中康夫氏も原付バイクのまま来場し、コメントを寄せてくれた。彼とは震災直後の長田の活動時に、今回の企画した地元ボランティアとも協働したという過去のつながりがあった。思いは共通である。
披露された"満月の夕"の競演
この"つづら折り"の会場では、2人のミュージシャンによって共作された震災をモチーフにした曲、"満月の夕"が、それぞれ2組みのバンドによって2回披露された。同じ場で競演されるのは初めてである。1回目はソウル・フラワー・モノノケ・サミットによる島唄或いはちんどんスタイルの"満月の夕"であり、もう1回目はヒートウェイヴの山口洋によるギターのロックバラードスタイルの"満月の夕"であった。同じ長田神社の空間で競演した2つの"満月の夕"は、さすがに演奏したミュージシャン自身にも高揚感を与えていたようで、それは聴く者の胸にも直接響いてくる。会場全体も詩に聴き入り目頭が熱くなる。鳥肌の立つような魂の空間であった。
最後は沖縄のエイサー隊も参加して、沖縄民謡を弾きまくり踊りまくる「大カチャーシー大会」となった。会場全体が"踊る阿呆に見る阿呆"となり、大円団を迎えた。大いに盛り上がり、事故もなく無事終了した。のべ1万人ほどが来場したという。故人や壊れた街に思いをはせて当時の苦労を分かち合い、明日へのエネルギーとするべく機会になったのではないだろうか。
成功のうちに終了。震災は2年目へ
会場の中には、震災当時のユートピア的な思いやりの心があふれていたように思う。久々に長田に帰ってきて愉しんでいた被災者の姿と共に、県外から観に来た若い音楽ファンの姿も目立っていた。彼ら彼女らには、被災地の今の姿を見てもらうことができただろう。
打ち上げは、ミュージシャンやボランティアが入り交じっての大宴会となった。慰霊祭を中心的に企画していたボランティアは、ここでは打ち上げ担当となって働いていた。一方、準備で散らかり放題となっていたプレハブ事務所を、イベントの間一人で綺麗に片づけていたあるボランティアの姿も印象的であった。
大成功に終わったが、ボランティア連中やのそれまでの努力は大変なものだった。それが地元の人たちにも、十分に受け入れられ喜んで貰えたことは何よりだった。さまざまなことがあった長田での震災1周年であった。そして2年目が始まった。
[了]
◉初出誌
1996年2月9日報告を加筆再録。
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。