阪神・淡路大震災で失われたモノ、残されたモノ、生まれたモノ…そんな記憶を記録します。

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◉コラム

震災発 ❶
埋められない"15分の距離"

芦屋市 ◉ 1995年1月

text by Mizuemon

1997.3.1  up
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きっかけ

私が行動したきっかけは、震災前夜(15日夜)一緒に飲んでいた神戸の友人2人と、中学の同級生1人との連絡ができなかったから。1月17日未明、地震が起きた瞬間私は、大阪の実家でちょうど寝るまえの考え事をしていた。うちは大阪でも北のほうなので、方角によって家具が2メートルぐらい飛ぶなど、大したもんだった。なにが起こったのかもわからないまま、停電になり、真っ暗で何も見えない。地震に免疫がなく、なんの備えもなかったのでライターを点けて呆然として数時間。電気が通ってテレビで見たものは、焦ったリポーターと、砂ぼこりの阪神だった。

「未確認ですが、死者2名、阪神高速が倒壊したとの情報も入っております。」高速が倒壊して死者2人のはずはない。正に私にとって前代未聞だった。友達は大丈夫だろうか。悪いとは判っていても、つい電話してしまう。でも既に回線はパンク状態で連絡が取れない。一人暮らしの友人が心配だった。そのまま1日目が過ぎた。テレビでは、どこもすさまじい状況と、死者名簿をCMなしで流しつづけていた。外から現地への連絡は取れず、良からぬ想像ばかり先走るので、実際家まで行ってみようと思い立った。

19日の朝、食料と水、ジュースを持って現地へ向かった。電車で行けるところまで行って、そこから往復40キロ、12時間歩いて見たもの。テレビで見たままの高速横倒しもショックだったけど、歩道に無造作に置かれている薄い布で包んだだけの遺体に道端の花を供える地元の人、静かに礼をいう家族。避難所に入りきれずに車で生活する人達と回し飲みしたジュース、ガラスを割られて中のものをすべて持ち出されたコンビニ、絶え間なく飛び交うヘリや仰々しい自衛隊のキャンプの数々、麻酔なしで路上で行われていた子供の手術等々。日が暮れると、信号の明かりも無く(ほとんど倒れていた)道端の焚き火以外真っ暗で、瓦礫を避けながら歩くのも一苦労だった。結局私の友人たちは、避難していて会えなかったけど、無事でいることはわかった。

その夜、大阪の自宅に戻る途中、電車で15分程の間に人の着ている服は変わり、持ち物は変わり、目つきは変わる。まだ呆然としていた私には、そのギャップ、大阪の電車の日常の酔っぱらいや、若者カップルのいちゃつきはとても受け入れられなかった。家に戻ってこたつで飲むお茶も美味しくはない。15分の距離を埋められないこと、15分離れればこんなにも他人事で済ませられる、もしくは知りもしないで済んでしまうこと。目の前に人が倒れていても無視できる人にはできるだろう。私も日常の殆どの問題を多分知らずに普通に生活している。つくづく、知らないことは免罪符にはならへんのやなあ、と思った。

でも、見てしまったものはしょうがない。とてもいたたまれずに、悲壮感さえ漂わせて被災地に向かうことになった。

1月(救命、救援)

かなり煮詰まっていた私は、良くも悪くもじっとしていられなかった。ただ、殆どの人がテレビの情報で動いていることは想像できた。一度、「本山中学校では割り箸が不足」の報が入ると、マスコミはそれをそのまま流し、それを聞きつけた心ある市民は一斉に、本山中学校もしくは神戸市役所対策本部に、何ヵ月にもわたって割り箸を送りつづける。YMCAでボランティア募集の発表後しばらくは大阪YMCAの事務所の電話はパンク状態だった。かく言う私も一応登録はした。でも、電話の向こうのボランティア職員も疲れ切り、私のような何千人ものボランティアの気休めで「登録」「また連絡します」という言葉を吐いているだけに思われた。実際連絡はかなり長い間なかった。あっただけでもましかもしれへんけど。

ただ待つことはしたくなかったので、それまで神戸との通過点ぐらいにしか思っていなかったけど、電車が届く範囲の芦屋というまちへ向かい、ほとんど通りすがりで、学習塾が母体だった聞いたこともない、ある弱小ボランティアに飛び込んだ。物資配達、水汲み、入浴介助等必要だと思われることはなんでもやった(つもり)。いきなり降って湧いたような災害を、地元で体験した中高生がとても大人に見えた。「隣の全壊の瓦礫から手が出とって引っ張ったら手だけやった。」が、彼らの正常レベルの会話になっていた。その順応性には脱帽だったけど、なにかきわどい強がりを皆が背負っている気がして、お姉さんの私は少し心配だった。

ただ、私の問題点は焦りすぎて私自身が何も見えてなかったことだ。被災地には迷惑かけられへん、と早朝電車で芦屋に行き、余って捨てる避難所弁当にも遠慮し、トイレのためにバケツの水を使うのが申し訳なくてがまんし、寝るとき気づいたら今日一日何も食べてないわ、のくりかえし。いくら熱くなっていたとはいえ無茶しつづけて2月に入った瞬間ダウンした。

今は、外部からのボランティアは、健康管理は絶対の義務だし、迷惑かけないで活動できないならさっさと帰るべきだとはっきり思う。被災者に気使ってもらってどーすんねん、と。

[続く]

◉初出誌
1997年3月1日執筆・未発表。
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。

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Text Mizuemon

主婦。震災当時、大阪在住で20代前半。芦屋市、神戸市長田区などで震災ボランティアとして活動した。

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