◉震災発レポート
奥尻島輪行譚 ❸
被災地は、奥尻だけではない。
日本海沿岸の津波被害
北海道島牧村 ◉ 2005年8月15日
◎ 北海道南西沖地震
島牧ユースホステル
text by kin
2011.1 up
巨大な鎮魂の碑が見守る海
奥尻津波館を出て、隣接した「時空翔」という巨大なモニュメントに上った。高台の上には磨かれた石が敷き詰められている。周囲の壁には、島内全ての犠牲者名が刻まれたプレートが埋められていた。
床の上には、震央の方角を指した黒御影石のオブジェが鎮座する。丘のようなこの場所からは、海を望め、また街並も一望できる。地震で根元から倒壊した赤白の灯台も復活し、近くにそびえていた。
日本海沿岸、檜山国道を北に進む
再び奥尻港に戻り、フェリーで島を後にした。瀬棚港から渡島半島の日本海沿岸を走る299号線檜山国道を北に進む。沿道の数十キロは海際まで小高い山が迫っている。奥尻と同じように至る所に崖や高台へ避難できるような避難誘導標識灯と避難路が設置されていることに気がつく。
その夜泊まった島牧村のユースホステルは、木の香りの残る目新しい木造建物だった。地場産という食事がとても充実し、ユースとしても印象深い施設である。その夕食後の話でわかったのは、実はこのユースのある一帯は南西沖地震の際に津波によって被災し、もろともさらわれてしまった地域だということだった。
この日通ってきた瀬棚から島牧までの渡島半島日本海沿岸の数十キロのルートは、そのまま数メートルにも及んだ津波が到着した範囲でもあったのだ。この島牧には7.5mほどもの高さの津波が襲来したという。このユースの建物も新しいとは思っていたが、再建して既に10年ほどが経っていた。
北海道南西沖地震では道沿岸地域の北檜山町、瀬棚町、大成町でも死者が出ていた。仮設住宅はそこと奥尻町、島牧村を含む4町1村に建設されていた。さらに加えれば日本海を挟んだ韓国でも数名の死者が出ていたという。被災地は、奥尻島だけではなかった。
災害名と被災地の溝、記憶の乖離
「北海道南西沖地震」という地震名や報道の影響はとても大きいもので、強く人々の印象が引きずられてしまうものだということが、こうして奥尻を離れてみて今更ながら実感することとなった。奥尻島が最大の被災地であったとはいえ、報道はあまりにもその1点にばかり集中していた。そのため対岸の北海道渡島半島西部地域の被災の記憶はほとんど注目されないまま忘れ去られ、支援の手も薄かった。
確かに震央は「北海道」の「南西沖」であるが、その被災地は渡島半島西部沿岸にも広く及ぶものだった。「奥尻津波館」も奥尻町が作ったもので、奥尻の被災だけに焦点が当てられた鎮魂と記憶の施設であった。
北海道南西沖地震全体を網羅しての記憶をきちんと後世に伝えて行くようなモノは、今の所どこにもないようである。
[了]
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。
- 奥尻町
- 檜山広域行政組合
- 北海道せたな町
- 島牧村
- 奥尻島観光協会 ブログ
- 奥尻島津波館-観光名所 - 奥尻町
- 奥尻島津波館-公共施設 - 奥尻町
- ネイチャーイン島牧 島牧ユースホステル
- 北海道南西沖地震教訓情報資料集 - 内閣府
- 『蘇る夢の島! 北海道南西沖地震災害と復興の概要』1996年発行 - 奥尻町