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◉震災発コラム

ピースボートと被災者
現場で観たものとは

東京都千代田区永田町 ◉ 1995年3月4日
星陵会館
ピースボート TO 神戸 報告集会

text by kin

1995.7.21  up
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被災した兵庫商会の建物(神戸市長田区御蔵通 1995年2月) [クリックで拡大]
被災した兵庫商会の建物(神戸市長田区御蔵通 1995年2月) [クリックで拡大]

ピースボートの救援活動が一区切り

世界中をフェリーでクルージングし、平和を考えたり国際交流をしているNGO団体のピースボートは、地震が発生した1995年1月17日から2日後の19日、救援活動のための先遣隊を現地に派遣した。そして現地調査の報告を受け、24日より長田区を拠点に置いて本格的な救援活動を開始する。

東京では活動のための義援金や救援物資、そして現地活動をする短期ボランティアを募集した。それらを無償チャーターした貨物船に乗せて、2月11日に東京港より神戸市中央区のハーバーランド高浜港へ向けて出航した。現地では生活情報かわら版『デイリーニーズ』を区内全域で毎日発行、数千部から始まり最大1万部を配布した。また行政未指定避難所を中心に常駐もし、独自に管理した救援物資を配った。またボランティアを1週間交代で短期的に派遣するなど、大規模かつ組織的な独自活動を展開してきた。

こうした活動からピースボートは、3月第2週で区切りをつけることになり、諸々を長田の地元住民によって作られた組織に引き継ぐ事になったという。そしてこのほど日本の政治の中心にある千代田区永田町の星陵会館で、これまでの震災救援プロジェクトの報告集会『震災救援活動を通して見えてきたこと』が開催された。

救援活動全体の中間報告

会場は一杯で、私も含めたピースボートの震災ボランティア活動に参加した人や関心を持つ人たちなどが集まった。実は現地に赴いて活動をしたとは言っても、末端で活動しているとなかなかピースボートの組織全体で行っていた活動や被災地の様子を俯瞰して捉える事はできない。プログラム第1部では、今回のプロジェクト全体の中間報告が行われた。続いて作家の灰谷健次郎氏の講演が行われた。同氏はピースボートに乗船したことがある縁だが、今回の地震の震源となった淡路島の出身でもある。

第2部では、関西で長く活動をしていたジャーナリストの大谷昭宏氏の話があり、続いて現地で活動をしていたメンバーよるパネルディスカッションが行われた。ピースボート共同代表の一人で物資と一緒にフェリーで現地に入った吉岡達也氏、先遣隊として最も早く現地入りし現場リーダーであった山本隆氏を中心に、長田区からやってきた田中保三氏、そして19歳女性の吉岡さんたちによって行われた。

地元会社経営者が直面した過酷な現実

田中さんは、ピースボートの長田現地本部のプレハブの建設場所を供与した兵庫商会という自動車部品会社の社長である。社屋は全壊し、大火に見舞われた。ピースボートとの関わりは、その後公園を拠点に活動していたのテントを訪ねたことをきっかけだという。田中さんは、地震当日のことや復旧の様子などについて話してくれた。

地震の後、自宅のある須磨から長田にある会社に車で向かった。途中、明るくなった街を見ると、建物は潰れ、橋は落ち、人々は呆然と外に立っている。そうした倒壊した家々を目にして驚き不安に駆られた。普段は10数分で着く道のりだが、渋滞や迂回で2時間ほど掛かってしまった。

御蔵菅原の会社に着くと、社屋は前のめりに全壊していた。窓からは煙が吹き出し、やがて地域一帯すべてが大火に見舞われた。消防車は来ていても、消火栓から水が出ず放水活動をしていない。集まった何人かの社員が、まだ火の回っていない倉庫から荷物を運び出そうとしていた。すると警察官がやってきて、「フォークリフトを貸してくれ」と言ってきた。訊くとまだ倒壊家屋の下敷きになっている人がいるので、フォークリフトで持ち上げて救出したい、とのことだった。田中さんは3人ほどの若手の社員に、すぐに行ってこい、と指示をした。

向かった社員たちは懸命に作業をしたが、コンクリートの塊はフォークリフト3台くらいではビクともしなかった。そうしている内に火の手が回ってきた。そして3人は泣く泣くそこから退去したという。

帰ってきた社員は、「社長、なんてむごいことをさせるんですか」と田中さんに言ったという。万に一つの可能性に賭け、生き埋めになっている人の命を助けようとしたが、結局見捨てざる得なかったのである。その後も彼らは助けられなかったという罪悪感に苛まれ、それを今でも引きずっているのだという。

結果として、会社としては人的被害は無かったが、5棟の建物や在庫、10数台の車輛を失ってしまった。

そして数日が経ち、現地を訪ねてきた知人が『デイリーニーズ』の余白にお見舞いの書き込みを残していったという。それをきっかけに当時公園を拠点に活動していたピースボートの本部テントを訪ねることとなり、本部プレハブを建てる場所に窮していたことを知って、会社の土地を提供して下さったという。

被災した若者の観たもの

長田の吉岡さんは被災者ではあるが、現在ピースボートでボランティアとして活動もしている女性である。家は倒壊し、最初の1週間は蓮池小学校で避難生活を送っていた。

被災して街も生活もめっちゃ混乱していたこともあり、彼女一人だけ大阪の友人の家に疎開したという。避難した大阪の街は、まるで何事もなかったかのように「普通の生活」があった。ローソンの垂れ幕は、バレンタイン・デーが近いことを宣伝していた。「神戸はまだ"お正月"の垂れ幕やのになあ」とその差に愕然としたという。

大阪に居ると、震災を忘れてしまう。被災地で困難に向かっている被災者がいるのに、同じ被災者である自分だけが逃げているような気がした。こうして1ヶ月続いた大阪生活に終止符を打ち、長田に戻ることにしたという。そして街を歩き、ミニコミを発行していたピースボートに飛び込んできたという。

現場で見えなかったもの

報告会の後、場を変えた宴では、東京で後方支援活動をしていた人とも話すことができた。

現地に行っていないので情報も入らず、実際の活動の様子が全くわからなかったという。すると不安も増しモチベーションも下がってきたりもして、前向きな提案などもできなかったという。今回のような場で、報告を知ることができて良かったとのことだった。救援物資の衣類の整理などを行っていたそうで、現地とは違い男女、大人子供など様々なサイズの衣類がまんべんなく集まっていたという。現場で活動していても、知らなかった現実がそこにはたくさんあった。

ここに参加し、自分が入った現場を少し引いた目線で知ることができた。そしてピースボートの呼びかけに参加した多くの震災ボランティアとも再会することができた夜だった。

[了]

◉初出誌
1995年7月21日報告から再録。
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。

◉データ
ピースボート 阪神大震災救援プロジェクト報告集会
   『震災救援活動を通して見えてきたこと』
開催日:1995年3月4日(土) 午後2時〜
場所:星陵会館(東京都千代田区永田町)
主催:ピースボート
プログラム:
   第1部「ピースボート TO 神戸」現地報告
       ボランティア活動内容報告
       救援物資
       ボランティアについてにのデータ報告
       中間収支報告
       「私にとっての神戸、そして地震」灰谷健次郎
   第2部「これからの神戸、ボランティア、社会づくり」
       「目で見て足で歩いた神戸」大谷明宏
   パネルディスカッション

ピースボート TO 神戸
       活動期間:1995年1月19日〜3月31日
       総活動人数:541名
       救援物資:総計10トントラック17台分(約100品目)
       義援金募集:合計10,227,903円
生活情報かわら版『デイリー・ニーズ』
       発行部数:ピーク時1万部
       配布期間:1995年1月25日〜3月9日

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Text & Photos kin

震災発サイト管理人。
当時「ピースボート TO 神戸」に参加し、長田で活動。

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