阪神・淡路大震災で失われたモノ、残されたモノ、生まれたモノ…そんな記憶を記録します。

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◉コラム

まちのひとたち
〜想いの中で、矛盾の中で〜

神戸市長田区 ◉ 1997年1月15日
阪神・淡路大震災 御菅地区犠牲者三回忌追悼式

text by 小野幸一郎

1997.9.3  up
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2年前の1月17日からの時間

ここ神戸市長田区の御蔵菅原地区では、1月15日に三回忌の合同慰霊祭を行った。僕の所属するもうひとつの活動グループ「まち・コミュニケーション」では、昨年に引き続き慰霊実行委員会の事務局を担いました。この慰霊祭の実行委員会は、御菅地区の住民の方であります。もちろん手弁当での参加。被災を受けた皆さん自身が「ボランティア」として慰霊祭を支えていらっしゃるわけです。

委員の方には、御菅に戻れるメドがたっていない方(いわゆる「店子」)も、とりあえず「仮の家」を建てて戻られている方も、町づくり協議会の会長さんも、「区画整理」が掛かっていない地区の方もいらっしゃる。立場や境遇を越えての「実行委員会」。おそらくは様々な想いをそれぞれの方が胸に秘めながら、3度目の「あの日」を迎えるべく、126名の魂を慰める式の準備をされました。そして今年の会場は「御蔵小学校体育館」。地区の多くの方が避難されていた所です。

生活再建のために。住宅再建のために。この2年余りの間、休むことなく話し合いに参加されてきた方たち。まだ避難所で生活されていた頃から地区のみんなに呼びかけしながら、「町づくり協議会」の役員になった方々は活動されてきた。自らも全焼の被災をしながら「地域住民のために」動かれたこの方々こそ、ある意味壮絶な「ボランティア」と呼べるのかもしれない——もちろん何よりも原動力は、ご自身が「ここに戻り、生活したい」という強い気持ちでありましょうか。

しかし、「区画整理」を前提にした「まちづくり」は、とんでもなく重いリスクを役員の方々に背負わせることになった。そして今、区画整理事業の決定はなされた。しかし、結局それだけなのだ。一体、これまでに何ができたのか? 役員の方々にそんな想いが去来しても不思議ではない。そして余りにも皮肉な立場にいる役員の方を、一体誰が責められるのか?

2年前の1月17日からの時間の流れは、想いと矛盾を飲み込みながら「今」に注がれている。

[了]

◉初出誌
ミニコミ誌『学級日記』第4号(自主発行,1997年9月3日発行)掲載を再録。
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。

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Text Ono

神奈川県出身。震災直後より長田区に入り、ボランティア活動に参加した。その後一旦離れるも再び長田に戻り、5年間に渡って御菅西地区に密着し、被災者向けミニコミ紙編集やまちづくり支援活動に従事した。元まち・コミュニケーション代表/元すたあと長田代表。

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