◉震災発コラム
第27回 神戸をわすれない
東京都世田谷区下北沢 ◉ 2014年1月25日
text by kin
2014.3.1 up
- 第27回神戸をわすれない (東京都世田谷区下北沢 2014年1月)
27回目の「神戸をわすれない」
震災19年を迎えた2014年の今年もまた「神戸をわすれない」が開催された。この震災を考えるイベントは、阪神・淡路大震災1年目の1996年が最初だった。そもそもは青池憲司監督と知人だった星野弥生さんが、「記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』」の上映活動として、その地元の東京・世田谷で始めたものだ。それが足かけ5年をかけた14本の連作映画が完成した後もこうして続けられ、今回でもう27回目を数える。
毎回映画の上映と合わせて神戸の現状報告などの講演が行われていたが、震災から時が経つにつれてその主題も、自らの足下である首都圏の直下地震やそれにともなう自主防災活動、まちづくりなどに移っていた。
そんな中で2011年に東日本大震災が発生する。この会でも「神戸をわすれない」の名前のままだが、当然のごとく東北の話に話題は移っていく。だがそれはけして神戸が復興を遂げたことや人々の関心が他にシフトしたということを意味したものではない。
まだ復興途上の神戸も、その各所で一斉に東北支援へと動き出す。あくまでもそんな動きに同調した結果に過ぎない。「神戸」を見守ってきた我々は東北に対してどんな動きができるのか。神戸のフィルターを通した東日本大震災とは、他の寄り合いにはない視点だろう。神戸の教訓が生かされるのか通用しないのか。東北の地では、これまでの神戸の経験が問われてもいる。
映画『津波のあとの時間割』
今年は青池監督が石巻で撮影した第2作目『津波のあとの時間割〜石巻・門脇小・1年の記録〜』(2012年)を上映。上映前に青池さんからの挨拶もあったが、今回は翌日からまた石巻入りするということでそのまま会場を中座して、上映が始まった。
<映画の現場>
この作品は、津波と火災で被災した石巻市の門脇小学校の1年を記録したもの。4年生たちは総合学習の時間で、どのようにして津波から街を守るかを考えていく。
青池組がこの作品を撮影していた2011年と12年、何度か撮影現場を訪問した際の様子もそこでは使われていた。その時の風やにおいまでもが瞬時に甦ってきた。実際に現場に行って見た石巻や門脇小は、テーマを絞り込んで完成したこの映画とはまた少し違う印象もあったりもする。
門脇小自体もとても複雑な課題が何層にも折り重なった場所だった。小学校一つにしても、避難者がいて中学生がいて小学生がいてボランティアがいた。そんな要素の全てを作品内に包含するのは難しい話だ。
だから映画中に最初に登場する1学期の終業式も避難者で一杯だった体育館や武道館は使えず、視聴覚室で行われていた。しかしそんな狭い視聴覚室にも門小っ子全員が収まってしまう。少子化の影響もあったが地震後に各地に避難して通えなくなった子どもたちだけで100人近くになっていた。しかし映画後半、学年末の総合学習の発表は避難所が閉じた武道館で、震災1年後の新1年生入学式は同じく避難所だった体育館で行われていた。作品では直接描かれないそんな校内の現状も、そんなところで暗喩されてもいる。
せっかく体育館で行われた入学式も、校区のほとんどを失った門小には映画の2012年時点で新入生が20数人しかいなかった。2014年の今年はとうとう一桁だという。あくまでも校内の「小学生」の日常に的を絞って描き取った今作からだけでも、校内の変化の断片を読み取ることはできる。
もう一つ現場を訪れて印象的だったのは、子どもたちの送り迎えだった。門小が間借りしていた門脇中学校の校庭にはいつも車が何台も駐まっており、体育の授業も部活も行われていない様子。日中の何台かは避難者の車だったがそれだけではなかった。
朝や午後になると、校庭は子どもを送迎する保護者の車で一杯になった。校庭の車は、避難所や仮設住宅が遠方に分散した結果をストレートに示す象徴のようにも感じた。ただでさえ不慣れな土地での仮設住宅生活の中で、毎日送迎をせざる得ない状況はとても大きな負担となる。だから映画の最後に描かれる、震災から1年が経ったころに始まった仮設住宅と学校を結ぶスクールバスの運行は、子どもと保護者にとってはとても分岐点的な大きなニュースだった。
そんな門小の校舎内で撮影隊は1年近くもの間、学校生活を共にする。最初は特異な存在感も次第に空気と化させ、1ヶ月も経った頃には先生も児童も保護者も自由に校内を歩くカメラをまるで気にしなくなっていた。言わば作品内でも登場する、学校生活に密着する卒業アルバムのカメラマンのようなものかもしれない。そんな風に見事に同化し、被災地の日常をそのまま写し取っていったからこそ紡げた作品なのではないか。
ただ子どもたちは登下校の日常風景を無駄な音が入らないようにと笑顔ながらも淡々と撮影しているスタッフに対しても、礼儀正しく挨拶をしてくる。カメラの存在を越えての顔見知りになった大人への正しい反応だろう。作品中にもカメラに向かって元気に挨拶する様子が映っていて、そんな門小っ子気質が作品の中に記録されたのは嬉しいカットだった。
映画を観ていると、訪問した当時の映画の現場をいろいろと思い出した。
女性、子どもにとっての震災/猪熊弘子さん(保育ジャーナリスト)
上映に続き、ジャーナリストの猪熊弘子さんによる講演が行われた。猪熊さんは阪神・淡路大震災当時は西宮に在住しておりそこで被災した。被災地の女性を取材した書籍も出版し、98年の「神戸をわすれない」でも話をしている。現在は東京で子育てや保育問題を中心に取材活動し、東日本大震災の被災地にも取材に入った。講演ではそんな自身の体験を交えながら、これまで取材してきた被災地の現状を報告した。
<震災当日>
東日本大震災発生当日は、双子のお子さんを保育園に預けていた。夜遅くにようやく出先から保育園に迎えに行った際、保育士さんがいつもと変わらない笑顔で応対してくれたことに、安心感と感謝の気持ちで感動した。そのおかげもあり双子の子どもたちには震災の心の傷は特に感じる事もない。
一方で当時中学生だった長女は集団下校で帰宅しており、一人余震に耐えながらテレビを見ていた。その当時の緊迫したストレートな映像を見ていた長女のほうが、逆にメンタル的に震災の影響を少なからず受けていたようだった。それをその年の年末に長女からふと告白された事で初めて気がついた。
そのような自らの子どもたちの様子を見ているので、被災地の子どもたちも心の中では震災の傷が深いのではないかと気になっていた。この映画の中でもお父さんたちが「子どもたちが元のように暮らせるようにしたい」と語る場面があったが、何度見てもそこが心にずしんと来る場面だ。
<初めて被災地に入って>
初めて東日本大震災の被災地・陸前高田市に入った時、何も無くなってしまった街の光景にショックを受けた。
「私自身も阪神・淡路大震災で壊れた家や下敷きになった人などを見ているので、初めて被災地に入る前も『私は被災して瓦礫には慣れているから大丈夫』と思っていたが、津波の被害と普通の震災の被害は本当に違う。津波で流された所は本当に『跡形もなく無くなってしまう』。跡形も無くとはこういうことか…と」
私に何かできることがあるかもしれないと被災地に入ったが、この光景を前にすると「私にできることは何もないな」と愕然としたももの、ここはがんばろうと思い直すことにして取材を進めていった。
夏にたまたま石巻に滞在中だった青池さんと現地で落ち合い、自転車で門脇・南浜周辺を巡った。その時の光景は、映画に登場する1年目の石巻と全く変わりがなかった。門脇保育所の跡も、現在もその門柱が津波で倒れたままになっている。
<被災地の保育所>
被災地でいろいろ保育士たちに話を聞いてみると、保育所の問題はいくつか感じ取れる。
一つは保育士自身のこころの傷。地震後、学校や保育所から子どもを家に帰した子たちが亡くなっていた。保育士は一様に、あの時家の人に引き渡さずに一緒に避難していればという思いで振り返り、ある意味では罪の意識というものにさいなまれている。震災から時間がだいぶ経過した今のこの段階に話を聞いていても、みんな涙を流さんばかりに話をする。そうした思いにとらわれたまま今の子どもたちに接して保育していかなければならないという状況はとても辛いだろう。
もう一つは少子化の問題。日本全国の問題だが被災地の中では特に顕著な印象を感じている。例えば女川では住民そのものが流出していった結果、4つあった保育所のうち2つが閉鎖した。
そんな中で保育士たちは疲れ果てているということを感じる。それは認可保育所の話だが、認可外保育所の状況はもっと悲惨だ。いろいろな支援を受けても、それでも運営資金が厳しいという問題がある。
来年消費税が10%になり「社会保障と税の一体改革」が行われると、保育園・幼稚園の制度が大きく変わり、現在の介護保険制度のような感じになる。子どもも要保育度の認定が必要で、保育施設の設置基準も変化する。これから先はそんな問題も関係してくるのではないか。
今後は被災地の子どもたちだけではなく、その「子どもを支える大人たち」をサポートしていく必要があるのではと感じてる。
<心の復興>
自分の書いた文章のタイトルに「街の復興、心の復興」と付けた。復興の過程では、目に見える建物からどうしても直していきがちだが、忘れられているのは実は「心」。心が復興しない限りは本当に復興したと言えないなと思う。いま神戸ではもう4割の人が震災を知らない。しかし東北の場合はそういうことにはならないのではないか。
ずっとあの被災した場所で被災した人が暮らし続ける。そうなると復興とは、街が綺麗に作り変わるということではなく、心が震災前と同じかあるいはそれ以上に甦ってこないことには言えないのではないか。
福島の福島市や郡山市の保育園にも取材に行ったが、放射能の影響で言えば子どもたちの成長に欠けてしまったことがたくさんある。ホットスポットもあり、除染されるまで一年間子どもたちは外で遊ぶことができなかった。遊ぶことができるようになっても、滑り台やブランコでどう遊べば良いのかも忘れてしまったり、三輪車に乗れなくなってしまった子どももいたという話を聞く。
雪が降ると地面の放射線量が下がるので外で遊べるようになる。その時、鉄棒に触った子が保育士に、「先生、鉄棒って冷たいんだね」と言ったそうだ。そう言われてその保育士は、なんて子どもたちにとって何と多くのものが失われたのかとショックを受け、どうにか子どもたちを守っていかねばと思ったという。そういう話はたくさんある。
この奪われてしまった、子どもたちの成長の上で大切な小学校に入る前の0歳〜5歳までの時期は、人間の一生の中で絶対にやり直せない時期だ。学校は入り直せても保育園はやり直せない。それを私たち大人たちがどうサポートしていくのか。
世田谷からの支援/保坂展人さん(東京都世田谷区長)
一参加者として来場していた保坂展人世田谷区長も話に加わった。保坂氏は国会議員時代から落選後の浪人時代も含め、この会には毎年来場している。区長になろうと思ったのは、この東日本大震災と原発事故が一番の大きなきっかけだったと話す。被災地には福島県南相馬市に区長になる前に2回、なってからも就任直後に行っている。
<区独自の復興支援金>
震災後には、世田谷区でも義援金が1億2000万円ほど集まった。こうした義援金や日赤の義援金は被災地にはなかなかスピーディーには届かない。そこで世田谷区では2011年6月に独自に「復興支援金」というものを創設した。これは昨年末までに9000万円を越え大変大きな金額となっている。中には絶対匿名という条件でお一人で3000万円の寄付もある。
その使い方について、被災した県にはそれぞれの復興基金に贈り、さらにいくつかの市町村向けには少しずつだが身近なところで役に立つことに直接贈ろうとしている。そうした具体的な内容が分かることで、またさらなる募金につなげられればと思う。
各自治体からも支援金使途の報告があり、幾つかの場所には見に行ったりもした。気仙沼市では保育園が被災したので山の中に保育園を再開するために使われた。福島では内陸部の二本松、本宮などで、外で遊べない子どもたちのための室内遊び場の設置に活かしている。
途方もなく大きな被災で多くの復興予算が土木工事に流れる中、民生の保育や教育にはなかなか予算が回っていかない。また沢山の資金が投下されても自治体が自由に使えるわけでもない。そうしたこともありこうした個別の自治体への活動は続けて、さらにはそれぞれの地域内で活動するNPOなどへの支援も形を工夫してできるようになればと考えている。
<現在も応援職員を派遣>
世田谷区の職員も被災地に派遣している。2011年には宮城県南三陸町に数十人をバスで派遣し、その縁で現在も数人が活動を続けている。気仙沼にも派遣しており、合わせると9人が被災地で活動を続けている。彼らとは年に2回くらいは現地に行って話を聞いているが、まだ復興とはほど遠い状況だ。「瓦礫は無くなった」というのが去年の印象だ。ただ無くなったことで何も無くなったという印象。
復興支援金の使い道に/猪熊さん
<移動図書館プロジェクト>
最後に猪熊さんは、SVAの行っている「移動図書館プロジェクト」の話も紹介した。SVAがこれを始めるきっかけとなったエピソードがあるという。
「向こうのお母さんたちが言うには『子どもたちが物を貰うことに慣れ過ぎている』と。そうではなくて『借りて返す』というような普通の生活に戻したいという意見を聞いて始めることにした、ときいて腑に落ちた」。「支援金」は、こうした「普通の生活へ戻していくためのアプローチ」のために使っていったら良いのではと区長に提案していた。
閉会後に猪熊さん話を伺うと、移動図書館プロジェクトのリーダーである鎌倉さんとも親しくしているという。移動図書館プロジェクトのスタートアップ時に携わり、青池組とも関わっている者としては世間は狭いなあと改めて感じた。
今年も神戸が縁で出会った人たちが東京・世田谷で集い、東北の話をした。縁を維持し場が続いていることに、大きな意義を感じた時間だった。
[了]
◉データ
第27回神戸をわすれない 〜
開催日:2014年1月25日
場所:東京都世田谷区下北沢
男女共同参画センターらぷらす11F(北沢タウンホール内)
主催:神戸をわすれない・せたがや
共催:世田谷ボランティア協会ボランティアセンター
後援:世田谷区社会福祉協議会
協力:世田谷区こどもいのちのネットワーク、市民運動・いち
内容:『津波のあとの時間割〜石巻・門脇小・1年の記録〜』上映
青池憲司監督トーク
「震災とこども」猪熊弘子
保坂展人(東京都世田谷区長)
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。